Mag-log in時計の秒針の音が、急に大きく部屋に響いた。
ずっと前。 それがどのくらいの時間を指すのか、七歳の子どもの感覚は分からない。しかし、悠人のたかが最近のおまけという言葉が、全くの嘘であることだけは確実だった。 真帆は、目の前でクッキーをかじる娘の姿が、急に遠くの知らない子どものように思えた。 自分の知らない時間が、この家の中に、すでに深く根を下ろしている。 真帆の膝の上で、きつく握りしめられた両手が微かに震えていた。 真帆は息を整え、両手を膝の上で固く握りしめた。七海を怖がらせてはいけない。声を荒げたり、問い詰めるような言い方をすれば、この子はすぐに口を閉ざしてしまう。 「……ずっと前からって、いつ頃から?」 できる限り柔らかい声を出そうとしたが、喉の奥が引き攣って、自分でも驚くほど擦れた音になった。 七海はコップのふちを小さな指でなぞりながら、視線をあちこちに泳がせた。 「うんとね……一年生になる前。幼稚園の年長さんになったころ」 一年生になる前。つまり暗い寝室で、真帆はベッドの中に横たわっていた。 シーツの冷たさが肌に刺さる。 頭が重く、こめかみが痛んだ。 本当に、自分が考えすぎなのだろうか。悠人の言う通り、サプライズの計画を子どもが誤解して、自分が過剰に反応してしまっただけなのだろうか。 仕事の残業が増えていたのは事実だ。七海と過ごす時間が減り、どこかで母親としての罪悪感があったから、余計に「知らない女」の存在に過敏になっているのかもしれない。 暗闇の中でスマートフォンが小さく震えた。 画面を点灯させると、LINEの通知が表示されていた。 差出人は、妹の長谷川菜月(はせがわ・なつき)だった。『お姉ちゃん、最近どう? 元気にしてる? 来週あたり久々にランチでも行かない?』 菜月からの何気ないメッセージ。 真帆は画面を見つめたまま、フリック入力の画面を開いた。「実はね、悠人が……」 そう打ちかけて、指が止まる。 なんて書けばいいのだろう。「夫が娘を謎の女性に会わせていて、二人で秘密にされていた」 そんなことを送ったら、菜月はなんて返してくるだろう。「それって不倫じゃないの?」と騒ぎ立てるか、あるいは「お姉ちゃん、疲れてるんじゃない?」と心配されるか。 もし、本当に悠人の言う通りただの勘違いで、自分がヒステリックになっているだけだとしたら。妹にまで無用な心配をかけ、悠人を悪者にしてしまうことになる。 証拠は何もないのだ。 青い髪留めも、絵本も、付箋も、すべて悠人の「良かれと思ってやった説明」で上書きできてしまう程度のものだ。 真帆は打ちかけた文字をすべて消去した。『連絡ありがとう! 元気だよ。ちょっと最近仕事が立て込んでてバタバタしてるんだ。また落ち着いたらこっちから連絡するね』 送信ボタンを押すと、画面はすぐに暗転した。 頼れるはずの肉親にすら、本当のことが言えない。 自分で自分を追い詰めているような感覚に胸が苦しくなり、真帆はスマートフォンをナイトテーブルの上に置いた。 リビ
「声を大きくしないでくれ」 悠人は静かに真帆を制した。その顔には怒りではなく、どこか落胆したような色が浮かんでいた。「七海が聞いてるだろ」「答えてよ! なんで秘密にしなきゃいけなかったの!」「だから、サプライズのつもりだったんだよ」 悠人は両手をテーブルの上で組み、真帆の興奮を宥めるようにゆっくりと語りかけた。「沙耶さんはプロの造形作家だ。七海の八歳の誕生日に、三人で大きなキャンバスに手形を押した記念の作品を作ろうって計画してたんだ。真帆を喜ばせたくてね。七海には『ママに言ったら驚きがなくなっちゃうから、内緒にしておこうね』って言ったんだよ。『悲しむから』なんて言い方はしていない。七海が勝手にそう解釈しちゃったんだろ」「そんなの……」「真帆、君はいつもそうだ」 悠人がふっと、悲しそうに目を伏せた。「僕が家族のためにやっていることを、全部悪い方に取ってしまう。君が最近仕事でイライラして、余裕がないのは分かってるよ。でもね、そうやって僕の言うことを何でも疑って、ヒステリックに攻め立てられたら、僕もどうしていいか分からないよ」「私が……ヒステリック……?」「そうだよ。ほら、自分の声の大きさに気づいてる?」 言われて、真帆はハッと息を呑んだ。 確かに、自分は叫ぶように声を張り上げていた。それに対して悠人は、終始穏やかで、冷静で、常識的なトーンを保っている。 外から見れば、理不尽に怒りをぶちまけているのは自分の方だった。「パパ……ママ……?」 廊下の影から、七海が不安そうに顔を覗かせていた。 抱きしめているクマのぬいぐるみを、ぎゅうぎゅうと力任せに握りしめている。「お喧嘩……しないで……」「七海」 悠人がすぐに立ち上がり、膝をついて七海に目線を合わせた。「ごめんね、喧嘩じゃないよ。ママがちょっとお仕事で疲れてて、パパと
ガチャリ、と玄関の鍵が回る音がした。「ただいまー」 靴を脱ぐ気配とともに、悠人の伸びやかな声が響く。「七海、パパ帰ったよ。今日ね、駅前のパン屋さんで、七海の好きなカスタードのパイが焼きたてだったから買ってきたよ」 紙袋の擦れる音。 真帆はダイニングテーブルに座ったまま、動かなかった。七海は自分の部屋へ逃げるように入っていき、ドアが小さく閉まった。 リビングに入ってきた悠人は、真帆の硬直した背中を見て、一瞬だけ足を止めた。だがすぐに表情を和らげ、手に持った紙袋をカウンターの上に置いた。「あれ、真帆、まだ起きてたんだ。仕事終わった?」「悠人」 真帆は振り返らず、固い声で呼びかけた。「立ち話じゃなくて、座って話したいんだけど」 悠人は少し首を傾げ、ジャケットを脱ぎながら微笑んだ。「どうしたの? そんな怖い顔して」「七海から聞いたよ」 悠人がジャケットをハンガーにかけようとする手が、空中でわずかに止まった。だが、それもほんの一瞬だった。彼はそのままスムーズに衣服を整え、真帆の向かい側の椅子を引き寄せて座った。「七海が何か言ったの?」「沙耶さんのこと。二年前から会ってたんでしょう? 水族館も、テーマパークも、三人で行ってたのね」 真帆は悠人の目をまっすぐに見つめた。彼の反応を、表情の微かな動き一つ見落とさないつもりだった。 しかし、悠人は慌てる様子も、焦る素振りも見せなかった。ただ、困ったように浅く息を吐き、目元を和らげた。「ああ……なんだ、その話か」「『なんだ』って何? 昨日は二ヶ月前にワークショップで知り合ったって言ったじゃない。全部嘘だったの?」「嘘じゃないよ、真帆」 悠人は落ち着いた口調で、諭すように言葉を紡ぎ始めた。「最初のきっかけは、確かに二年前のワークショップだよ。でも、その時はただ挨拶をした程度でね。本格的に工作を見てもらうようになったのは、七海が年長さんになってからなんだ。僕が言いたかったのは、定期的に会うようになったのがここ二ヶ月くらいって意味だった
時計の秒針の音が、急に大きく部屋に響いた。 ずっと前。 それがどのくらいの時間を指すのか、七歳の子どもの感覚は分からない。しかし、悠人のたかが最近のおまけという言葉が、全くの嘘であることだけは確実だった。 真帆は、目の前でクッキーをかじる娘の姿が、急に遠くの知らない子どものように思えた。 自分の知らない時間が、この家の中に、すでに深く根を下ろしている。 真帆の膝の上で、きつく握りしめられた両手が微かに震えていた。 真帆は息を整え、両手を膝の上で固く握りしめた。七海を怖がらせてはいけない。声を荒げたり、問い詰めるような言い方をすれば、この子はすぐに口を閉ざしてしまう。 「……ずっと前からって、いつ頃から?」 できる限り柔らかい声を出そうとしたが、喉の奥が引き攣って、自分でも驚くほど擦れた音になった。 七海はコップのふちを小さな指でなぞりながら、視線をあちこちに泳がせた。 「うんとね……一年生になる前。幼稚園の年長さんになったころ」 一年生になる前。つまり、少なくとも一年以上前からだ。 真帆の頭の中で、過去の記憶がバラバラと音を立てて崩れていく。悠人は「二ヶ月ほど前に参加した単発のワークショップ」と言っていた。それが最初の嘘だったのだ。 「沙耶先生と、どんなことをしていたの?」 「工作したり、お絵かきしたり……あと、お外でケーキ食べたり」 「お外で?」 「うん。おっきいお魚がいるところとか。あかい列車に乗るところとか」 おっきいお魚。水族館だ。赤列車。真帆たちが二年前の秋に行こうとして、悠人の仕事が急に入ってキャンセルになった、あの郊外のテーマパークのことだろうか。 あの時、悠人は「急な現場トラブルが入った」と困り果てた顔で謝っていた。真帆は「仕事なら仕方ないよ」と笑って、家で七海と二人、ホットケーキを焼いて食べたはずだ。 あの裏で、二人はそこへ行っていたのか。 悠人と、七海と、あの女の三人で。 胸の奥が焼き切れるような熱さと、指先が急速に冷えていく冷たさが同時に襲ってきた。真帆は深く息を吸い込み、途切れそうになる意識を必死で
真帆は絵本を両手で持ち上げた。ずっしりとした重みがある。 背表紙は少し日焼けしていて、新品ではないように見えた。誰かの家から持ち出されたものだろうか。 表紙を開く。 見返しの白い厚紙に、文字が書かれていた。 丸みのある、整った細いペン字。 昨夜、連絡帳に貼られていたピンク色の付箋と、全く同じ筆跡だった。『八歳のお誕生日まで、あと少し』 真帆は息を呑んだ。 文字の周りには何も装飾がなく、ただその一行だけがぽつんと書かれている。 七海の誕生日までは、あと三週間ほどだ。 子どもの誕生日を祝うにしても、普通は「お誕生日おめでとう」か、せいぜい「もうすぐお誕生日だね」だろう。なぜ、わざわざ八歳という年齢を強調し、未来の節目を待ち望むような書き方をするのか。 ぞわりと、背筋を這うような寒気を感じた。 この女は、何を見据えているのだ。 単なる工作教室の先生が、生徒の誕生日をここまで意識するだろうか。それとも、もっと前から、七海の中に深く入り込んでいたのだろうか。 真帆は絵本を胸に抱きしめ、引き出しの奥を見つめた。 ハンカチ、シール、絵本、そして青い髪留め。 悠人は最近配られたおまけだと言ったが、これだけのものが一気に持ち込まれたとは考えにくい。少しずつ、少しずつ、真帆の気づかないところで、この部屋の中に知らない女の欠片が落とされ、増殖していたのだ。 真帆は部屋の隅から、自分という存在がじわじわと押し出されていくような錯覚に陥った。 自分が選んでいない物が、娘の生活に溶け込んでいる。 気がつけば、真帆の呼吸は浅く、荒くなっていた。絵本の表紙を握る指先が白く鬱血している。◇ 夕方。 インターホンの音が鳴り、学童から帰ってきた七海が玄関に飛び込んできた。「ただいまー!」「おかえり、七海」 真帆は努めて明るい声を作り、廊下に出た。 七海の髪には、朝結んでやった青い星の髪留めが、まだしっかりと収まっていた。 真帆は手を洗い、麦茶とクッキーをテーブルに並べた。七海はランドセルを放り出し、椅子に座って嬉しそうにクッキーに手を伸ばす。 向かい側に座り、真帆はコップの水滴を指で拭いながら、何気ない口調で切り出した。「ねえ、七海」「ん?」 七海が頬を膨らませたまま首をかしげる。「お部屋の片付けしてたら、机の中から絵本が出てきたんだけ
玄関のドアが閉まり、悠人と七海が出かけていくと、家の中には耳鳴りがするほどの静寂が落ちた。 真帆はダイニングテーブルの片付けを済ませ、ノートパソコンを開いた。画面にはECサイトの売上データのスプレッドシートが表示されている。だが、数字の羅列を眺めていても、頭に入ってくるのは昨夜のピンク色の付箋と、先ほどの青い髪留めのことばかりだった。 悠人の言葉が脳内で反響する。 本当にそうだろうか。あんな、いかにも女の子が特別に選びそうなデザインの髪留めを、まとめて配るだろうか。 真帆はマウスから手を離し、ゆっくりと立ち上がった。 吸い寄せられるように、廊下の突き当たりにある七海の部屋へと向かっていた。 子ども部屋のドアを開けると、微かに甘い柔軟剤の香りがした。 ベッドのシーツは乱れたままで、床には昨夜遊んだのだろう、ブロックがいくつか転がっている。 真帆は部屋の中央に立ち、ぐるりと見渡した。 クローゼット、学習机、おもちゃ箱。 どれも真帆が買い与え、真帆が整理整頓してきた場所だ。この家は、真帆が守っている安全な場所のはずだった。 机の端には、昨夜真帆が削った鉛筆が三本、長さを揃えて筆立てに入っていた。月曜日の時間割を貼ったのも、体操服の袋に名前を書いたのも自分だ。だからこそ、その中に見覚えのないものが紛れ込んでいることが、ひどく落ち着かなかった。 真帆は学習机の脇に置かれた、三段のプラスチック製引き出しケースの前にしゃがみ込んだ。ここには七海のハンカチやティッシュ、こまごまとした私物が入っている。 一段目を引き出す。 綺麗に畳まれたハンカチが並んでいる。ウサギの柄、チェック柄、水玉模様。どれも一緒にスーパーやショッピングモールで選んだものだ。 真帆は指先でその布地を一枚ずつめくっていった。 奥の方に、見慣れない布の感触があった。 引っ張り出してみる。 それは、縁に繊細なレースがあしらわれた、薄いラベンダー色のハンカチだった。七歳児が日常的に使うには少し大人びている。もちろん、真帆は買ったことがない。 心拍数が少しだけ跳ね上がった。 真帆は二段目の引き出しを乱暴に開けた。 文房具やシールが入っている段。 散らばった折り紙の下から、キラキラと光るホログラムのシールシートが何枚も出てきた。動物や星のシールに混じって、一枚だけ、少し厚みの